時は江戸時代の初め、出羽山形藩初代藩主の最上義光は商工業重視の街づくりを目指し、近江商人や、各地の職人を招き、城の東側を通る羽州街道沿いに城下町を発展させました。それが、商人町の「市日」のつく七日町、十日町、本町などの始まりです。
当時、旅籠町あたりを流れていた馬見ヶ崎川が大雨のたびに何度も氾濫し、被害をもたらし町の発展の妨げとなっていたため、最上義光の後に山形城主になった鳥居忠政が、馬見ヶ崎川の流れを変える大工事を行ったのが今から約400年前の1624年のことです。その際、城のお濠の水源と、城下町の生活用水、町の西側に広がる農村への農業用水の確保のために、馬見ヶ崎の上流域に取水口となる堰をいくつか設け、そこから網の目のように水路を町の中へ作った。それを「山形五堰」とよびます。「山形五堰」は流れる方向により、笹堰、御殿堰、八ヶ郷堰、宮町堰、双月堰とよばれ、江戸、明治、大正、昭和、平成と時の流れを越えて今も人々の生活と共に流れ続けています。
中でも「御殿堰」は城のお濠を満たすために、城を目指して東から西へ、小白川町から、代々の城主ゆかりの寺のある寺町とよばれる今の緑町3丁目あたりを通り、三の丸大手門のすぐ東に位置する七日町を横切って、堀へと注いでいた堰であったことから、「御殿」の名が冠せられています。全長17.5km。作られた当時はすべてお堀に流れ込んでいましたが、時代の移り変わりと共に、庭園への引水、日常用具や野菜の洗水、防火用水としての生活用水として利用され、また製糸業や染物・鰻問屋・養鯉業などの産業用水としても使われてきました。
昭和に入って、水質汚染などの環境破壊もありましたが、上下水道の整備や環境への意識の変化から、最近では水質も改善し、あちこちで昔ながらの石組の間を流れる清らかな水音が復活し、場所によっては、蛍や梅花藻も見られるほどになりました。まさに今、山形市の中心に清らかな「御殿堰」を復元させ、市民の憩いの場、そして商人の町を取り戻そうとしているのです。